「桐島、部活やめるってよ」は○○○映画か?

こんにちは。ヤトミックカフェ運営人の矢透泰文です。
先日ようやく「桐島、部活やめるってよ」を観ました。いやー、観てよかった。苦し面白い作品でした・・・。

この映画は学校一の万能人間「桐島」が突然部活を「降りる」ことによってあぶり出される人間関係を描きます。舞台こそほぼ高校の学校内ですが、高校生の青春物語ではありません。

場のヒエラルキーに支配される人間、生きる意味を見いだせないでいる人間、自らの才能の限界に絶望する人間、同調圧力に苦しめられている人間など、描かれるのは、ある種の世界の縮図です。

映画における二つの軸

この映画には、二つの軸があります。

一つは
「結局、できる奴は何でもできて、できない奴は何にもできないって話だろ」
という象徴的な台詞があらわす、ヒエラルキー構造にとらわれた人間を描く軸です。主人公の一人である宏樹はヒエラルキーの上=できる人間に属し、また映画部の前田はこの軸ではヒエラルキーの下=できない人間として配置されます。

もう一つの軸は、映画部の前田、野球部のキャプテンに象徴される、「打ち込めるものがあるかどうか」という軸です。ヒエラルキーの頂点にいる宏樹ですが、彼は「打ち込めるもの」をもっていません。それどころか、何に対しても興味や情熱を持てずにいる「虚無」の人間として描かれます。

宏樹の側から見ると、映画部の前田、野球部のキャプテンは「眩しい存在」として映りますが、しかし一方で、野球部のキャプテンやバドミントン部のミカは、自らの才能の限界を残酷に突きつけられています。

図示すると以下のようになるのではないでしょうか。

Kirishima1

さらに、以下のようにグループ分けをしてみました。

ヒエラルキーの下にいることで抑圧されているかに見える前田が実は誰よりも充実しているとか、どこにもくくれない「かすみ」「竜太」が実は一番の「勝ち組」なんではないかとか、といった仮説がムクムクと湧いてきますが、

Kirishima2

いずれにせよ、この映画には勝者も敗者もなく、救いのようなものは示されません。これが登場人物たちの住む世界の成り立ちであり、「この世界で生きていくしかないのだから」という決意とも諦念ともつかないメッセージがしめされるだけです。

「エレファント」と「桐島」

本作は群像劇ですが、ラジオ番組で吉田大八監督は、「この映画は最後に銃撃のない『エレファント』という認識で作った」と述べています。

(以下ネタバレを含む記述があります)
「エレファント」では、「桐島〜」と同じように、高校という世界の中でヒエラルキーに抑圧された人間たちが描かれます。が、映画の最後には、できる側の人間も、できない側の人間も、無差別に無意味に撃ち殺されて終わってしまうのです。そこでは世界はある種の終焉を迎えます。

しかし「桐島〜」では、その世界の人間たちは誰一人として死ぬことなく、残酷な世界はそのまま継続します。

「桐島」と「ナイト・オブ・ザ・リビングデッド」

ぼくは思うのですが「桐島、部活やめるってよ」は、ゾンビ映画の亜種なのではないでしょうか?

映画部の前田は、ジョージ・A・ロメロのゾンビ映画に心酔しています。この部分は原作小説から改変されていますが、もちろん監督の意識的な改変です。

「ナイト・オブ・ザ・リビングデッド」以降、「ゾンビ映画」というジャンルは、その時々の世界における、何がしかのメタファーとして描かれてきました。
「ゾンビ」は映画の中では感情や意志を持たぬ屍ですが、彼らがあまりに「空白」でありすぎるがゆえに、人々は「ゾンビ」とはいったい何を表しているのか?ということについて、考えざるを得ません。

つまり「ゾンビ」というキーワードが意識的に用いられている以上、「桐島〜」という映画において、「ゾンビ」という言葉を用いて想起されるような何ごとかを語ろうとしているのは明白だと思うのです。

もちろん、この映画はホラー映画ではありません。しかし、あの世界にしっかりと存在するゾンビが、映画のフレームの外に待機しているのではないか、あの登場人物たちはゾンビに取り囲まれているのではないか・・・そんなふうに思えてなりませんでした。それはもちろんメタファーとして。

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