舎流楼灯(しゃるろっと)さんのコラム。
「そばにあるもの」から、さらに世界を広げて
どこへ、いく、のか?


24 短い言葉と長いお話

昨日、しゃるは
枡野浩一という歌人のインタビューを読んだ。

というのも、しゃるも高校生のころ
短歌のようなものを書いていて
コンテストに出したら入賞して
本に載ったことがあった くらいなので、
短歌は気になるジャンルなのだ。

そんなしゃるろっとですが、
ぼんやりとネットサーフィンをしていたら
枡野浩一の、
「どう解釈されようと、どう面白がられようと、かまわない」
というインタビューのタイトルが
視界の端に引っかかり
気になって早速読んでみた。

しゃるは昔から
長いお話が書きたかったのだけれど、
いつも「今はまだ書けない」と思っていた。
だけど、文字を連ねることには
得も云われぬ爽快感というか浮遊感というか、
熱を持った傷口に氷袋を当てるような
気持ちよさがあった。

だからしゃるは、文章を書くのが好きだった。

どうしたら長いお話が書けるのだろう?
でもその秘密は分からなかった。
いつか長いお話が書けるのを夢見ながら
飽きることなく短い言葉を連ねて遊んでいた。

短歌を詠むことは写真を撮ることに似ていた。
美しい風景や大切な瞬間を
言葉で切り取り紙の上に載せるような、
そんな感じだった。

反面、当時のしゃるは教育という名の
心身に亘る母親の折檻に喘いでいた。
母親の心酔する宗教に役立たないものは
教育の名の下にすべて切り捨てられた。

しゃるの自主性や個性はすべて
忌まわしき切捨てられるべきものとして解釈された。
それでもしゃるは自分を捨てたくなかったので、
「何も期待しない、どう思われようとかまわない」
という基本理念で生きていた。
そんな思いが枡野さんのインタビューのタイトルと
リンクした。

なんとなく、
人生のヒントが隠されているような気がした。

枡野さんは×イチなのだが、
割と普通な感じなのに×イチの人に共通するのは
必要以上に潔すぎる雰囲気がある。

つまりどういうことかというと、
自己評価が低かったり、あるいは
自分の立場がなくなるほど人を褒めすぎるとか
そんなようなことだ。

そこまでしたら、
自分の居場所や仕事やそのほか大切なものは
なんだかんだと難癖を付けられて
他の誰かに奪われてしまう。
樹のてっぺんになるりんごは
とっとと収穫してしまわないと
鳥に食べられてしまうのと一緒だ。
(ちなみにしゃるも×イチだ)

思春期のしゃるはそれと同じような潔さを
刷り込まれ
「このまんまじゃ価値観が美しすぎて
しゃるの持分がなくなって死ぬな」
と思いながら生きていた。

自分の明日の食べ物がなくなってしまうのに、
プライベートでは冷蔵庫のものすべて使って、
ニコニコと笑顔で
友達に晩御飯を振舞っちゃうような感じ。
そして、それを微塵も悟られないように
気を付けている感じ。

仕事では
せっかく自分についてくれたお客さんに
後から入った友達を褒めて太鼓判を押して
顧客を譲ってしまうような、そんな感じ。

実際手に入れたいろんなものを
ちゃんとキープできていたら
それこそぴかぴかの外国の新車が
買えるかもしれないくらいの何か
(まあ、新車は喩えだけど)
が残っていたかもしれない。

そして潔いということは一方でわがままだ。
やさしすぎるし、与えすぎるし
だけど、不意に姿をくらましたり、
分け合うしあわせは絶対に認めない。

分け合うことができないと同じ屋根の下で
誰かと暮らすことはできないし、
同じ仕事を何年も続けられない。
人はそんなにいつも潔くは生きられない。

何も考えない人は
潔い人にこれ幸いとぶら下がるだろが
潔すぎるその人の
その人自身を好きになった友達は苦しくなるだろうし
その人を愛してしまった人は心配になるだろう。

そんなわけで、話は少し戻るのだけど、
多分長いお話は
読む人に何かを期待するものだ。

じっくりと向き合うための時間、
読み込むための愛情・共感・などなど。
だから、潔すぎる価値観を持ったままでは
書けないものだ。
だってそんなもの求めちゃいけないのだから。

逆に
そういうものをうまく求められない悲しさを
潔さと言い換え突き詰めたところに
短歌というものがあるのではないか、
今になってそんな風に思う。

翻って、
しゃるが長いお話を書けるようになるとき
それは、愛情や共感やそういう温かい気持ちを
自分以外の誰かから、
もらうことができるのだという
もらってもいいのだという安心感を
継続して持てるようになったときなのかもしれない
そんな風に思った。